厚木上教会

2025.04.6 牧師 中野通彦 「縦と横の世界」

マタイによる福音書20章20-28節

1.本日のテキスト
さて、本日のテキストはマタイによる福音書20章20~28節です。聖書の文脈をみてまいりますと、直前の記事は3度目に死と復活を予告するというところでした。そして、次の21章では、イエス様がいよいよエルサレムに入城されるというところです。本日のテキストが、この二つの記事にはさまれている意味を考えたいと思います。本日のテキストの小見出しは「ヤコブとヨハネの母の願い」、二人の兄弟のお母さんが二人の出世をイエスに願い出るという内容です。このことは、イエス様がメシアだということもイエス様が十字架の道を歩んでいるという事も、何度明かされても、弟子たちにも誰にも理解できなかったことを意味しています。
イエス様の12弟子のうちのヤコブとヨハネは兄弟でした。この兄弟の母親は、息子たちと一緒にやってきて、イエス様の前にひれ伏して何か願おうとしていました。その内容は、イエス様の王座の左右に座らせて欲しい、ということでした。この母親は、イエス様が特別な人であり、エルサレムに到着したら王座につくと信じていたようです。そのときに、自分の息子たちを特別な地位につかせて欲しいと望むのです。この母親は図々しいのでしょうか。私はそうでないと思います。聖書の表現からみると、彼女はひれ伏したが、どうもくちごもっていて何を言おうとしているのわからなかったといいますから、なかなか言い出せないでいたのかもしれません。しかし、親というのは、他のどんな願いをさしおいても、自分の子どもの栄達を願うものです。そう考えるのは、親として当たり前です。恥ずかしい思いを抑えて、イエス様に二人の息子のことを頼んだのではないでしょうか。ですから、この兄弟の母親の姿は、私達一般的な親の姿かもしれません。

2. 二つの間違い
その母親の言葉を聞いたイエス様は、彼女が自分の願っていることがわかっていない、と答えます。イエス様とて、人の親の気持ちは痛いほどわかっていたでしょう。しかし、息子たちの栄達を望んで自分を当てにしているとすれば、それはイエス様にとっても胸が痛む事柄です。それは、イエス様の弟子には母親の願う様なこの世の栄達はないからです。そして、母のふたつの間違いを指摘するのです。ひとつは、イエス様はメシアであるが、メシアというのは、皆が思っているような、この地上の王様を意味しているのではないということ。「多くの人の身代金として自分の命をささげる」苦しくみじめな死を受け入れるのがメシアなのだということ。また、イエス様が飲もうとしている杯がどのような杯であるか。その杯とはもちろん十字架のことを指しているのだということ。それは、栄達とは対照的に、虐げられ、捨てられることです。
ふたつめの間違いは、イエス様に従う者はイエス様の飲む杯を飲むものになるということ。その杯とは、この世の栄達を指しているのではない、みじめで苦しいイエス様の歩んだ十字架の道だということです。
この母親の願いを聞いて、他の十人の弟子たちはこのふたりの弟子のぬけがけにたいして、腹を立てたとあります。これは紛れもなく、他の十人も同じ思いを腹に秘めていたという事です。自分こそが上に立ちたい、その思いを持っていたのです。この弟子たちの気持ちもしごくもっともなことです。ひとの上に立ちたい、偉くなりたいという思い。人間の社会はこの思いで成り立っているといっても過言ではありません。学校で勉強してひとより良い成績をとろうとする。悪い成績をとろうとする人はいません。スポーツで試合をすれば、負けようとする人はいません。なんだって、ひとよりも上にたちたいと願います。この思いにしてもわたし達の普通の感覚です。

3,「縦と横」
しかし、イエス様はそれらのことは異邦人がすることだといいます。異邦人とは本当の神様のことを知らない人を指しています。その人たちの間では、支配者が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている、と言います。支配者は力でもって、自分の思い通りにしようとします。それは、本当の神様を知らない人のすることだというのです。
わたしは説教の中で、見える世界、人間社会のことや自然のこと、この世界を「横の関係の世界」と申し上げています。それに対して、人間と神様の関係を「縦の関係の世界」と申し上げています。「横の関係の世界」は誰にでも見える世界ですので、本日のテキストに出てきたヤコブとヨハネの母が見ていた世界ということができるでしょう。また、わたしたちの社会のほとんどの人が見ている世界ということができます。この人たちの中では自分のことしか考えていない人もいるかもしれませんが、ひとのために一心に働く立派な人もいます。しかしそれでも「横の関係の世界」しか見ていない。「縦の関係の世界」では、人間には罪があり、(罪というのは人間の属性みたいなもので、そのひとが何かしたからあるというものでもないし、なにか自分で努力して無くせるものでもない)その罪を取り去るためにイエス様が犠牲になり、神様との関係が修復されたのです。神様がひとり子を犠牲にするほど人間を愛していることが明白になり、わたしたちはキリストを通して神様の命に生きることができる。これが縦の関係の世界の重要なところです。この縦の関係の世界のことは信仰を持たない人にはまったくわかりません。教会のわたしたちはこの縦の関係の世界と横の関係の世界のちょうど交わるところに存在しているのです。キリストによって救われたわたしたちがこの人生においてどういう生き方をするのか、そういうことが問われているのが教会なのです。

4.十字架の交わりで
前の教会に熱心に来ている青年がおりました。クリスチャンではあるんですが、礼拝が終わるとすぐに帰ってしまう。転会をすすめても乗り気ではない。でもノンクリスチャンのお連れ合いを連れてくる。そのうち女の子を授かって赤ちゃんを連れてくるようになりました。その女の子が一歳になるころ難病で急遽入院になりました。電話がかかってきて「先生、祈ってください」と、危険な状態であったのでしょう。教会で祈り、皆で寄せ書きをして渡しました。その方は、「先生が神様のご計画のことを言われていましたが、今回のことも神様がしっかりとこどもを神様のもとで育てるようにと与えられた試練だと考えています。」とはっきり教会で証しをして、皆さんに感動を与えました。その後幸運にも女の子の治療は順調で、教会で元気に駆け回るようになりました。それが最近になってお連れ合いから洗礼を受けたいという申し出がありました。役員会とも相談して急遽2月の末に洗礼式を執り行いました。このときに女の子も幼児洗礼を受け、大変恵まれた礼拝を守ることができました。わたし自身もずいぶん勇気づけられました。「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」というイエス様の言葉が聞こえてきたようです。

5.結
わたしたちは今レントの時を過ごしております。イエス・キリストの十字架への道行きはつらく、厳しいものです。そして十字架はみじめで、悲しいものです。しかし信仰的に見れば、この道行きこそ勝利への行進であり、わたしたちの喜びなのです。世界における戦争や環境破壊、また、国内における自然災害、また,わたしたち自身や身近に起こる問題など手も足も出なくて絶望を感ずることもあります。しかし、信仰者は神様との関係をとりもってくださったイエス・キリストにすべてをゆだねて生きるのです。勝利を宣言されるイエス様に希望を持って従っていきたいと思います。

天の神様
本日も礼拝にお招きくださり感謝いたします。憐れみをもってわたしたちを受け入れてください。今、わたしたちはレントの時を過ごしておりますが、御子の十字架の道行きに思いをはせ、自らの十字架を知るときとしてください。
現在苦しみのうちにいる方々、生きづらさを感じている方々をおぼえます。
自然災害の中困難のうちにいる方をかえりみ、慰めをお与えください。わたしたちがなすべきことをお示しください。
この礼拝をおぼえつつも出席のできない方、またご自宅で礼拝を守られる方に祝福を与えてください。この祈りを愛する御子イエスの名をとおしておささげいたします。