1.聖書
さて、本日のテキストは使徒言行録13章26節からのところです。バルナバとパウロがアンティオケアの教会から第一次宣教旅行と呼ばれている伝道にでかけた時の話です。聖書の後ろについている地図をみますと、「7 パウロの宣教旅行 1」とあります。シリアの上にあるアンティオケアからキプロス島を経てピシディア州のアンティオケアに行きました。そこでユダヤ教の会堂の安息日の礼拝に出席した時のお話です。パウロは会堂長から話をするよう言われました。パウロは旧約聖書から始まって、神様がイエス様を救い主として送ってくださったことを話しました。
ピシディア州のアンティオケアはユダヤから見ると外国でしたが、世界中には散らされたユダヤ人が会堂を作って信仰を守っていまして、アンティオケアの会堂もそのひとつでした。そして、その中にはユダヤ教に熱心な外国人も交じっていたのです。
会堂長は、ユダヤ教の本場であるエルサレムからやってきた二人に旧約聖書の神様についての解き明かしを期待しました。ところがパウロは、旧約聖書が示しているのはイエス・キリストであり、そのキリストの十字架の死と復活を信じることによって人は救われる、という話をしました。その話を聞いた外国人たちは、神様のそもそもの計画は、ユダヤ人だけの救済ではなく、キリストを信じるすべての人々が救われることだということだということを聞いて喜び、多くの人が信仰に入りました。逆に、自分たちの期待を裏切られたと感じたユダヤ人たちは町の人々を扇動してパウロ達をひどい目にあわせて追い出しました。
2.死に勝利しているのか
実は、このテキストの中のパウロの説教は、当時のアンティオケアの人々に語られただけではなく、今ここにいるわたしたちに語られている言葉です。クリスチャンは信仰によってキリストの新しい命にあずかると考えます。第1コリント15章でパウロが、「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」と言っている通りです。ところが、わたしたちは、クリスチャンであっても、そうでなくても、「人間死んだら終わりだ」と考えて、「生きているということが何より大切だ」と考える人が多くいます。その考えは、まるで「まだ本当の救い主は来ていない」と考える、聖書にでてくるユダヤ人のようです。信仰者は死んだら終わりではありません。わたしたちはキリストの復活によって、神様との永遠の交わりに入れられているはずです。
どうしてクリスチャンでさえ、まだ救い主は来ていないと考えるのでしょうか。わたしが考えるには、それはおそらくキリストが来た後もいっこうに世界が変わらないからです。パウロの時代もそうですが、現代でもそうです。戦争や災害や病気や生活苦といった不幸がわたしたちを脅かしています。この状況では、救い主が来たということを受け入れることは困難なのです。
それでは「救いがわたしたちに実現した」、「死に勝利した」ということは、クリスチャンのはかない幻想であり、気休めなのでしょうか。
3.死の世界において死を超越した世界を見る
さて、第二次大戦ドイツでナチスに対する抵抗運動でとらえられた神学者のボンヘッファーは、80年前の1945年4月9日に処刑されました。ボンヘッファーは、捕らえられた後も牢獄の中から福音を発信し続けました。新しい命に生きる希望を失うことがなかったのです。彼は、「死の力がすでに破られている」ということは、わたしたちがキリストの復活の奇跡に生かされているということだと考えました。またそれは、「生きる」ということをことさら美化することも、逆に否定することもなく、神様からいただいたものとしてありのままに受け入れることができるということ。そして、人類は今なお死の世界に生きているけれども、すでにその死を越えている、と言っています。彼は牢獄で死を目の前にしながら、キリストの復活にあずかり、死を超越した世界をみつめていたといえるでしょう。これは獄中書簡を書き続けたパウロと重なるところです。
4.信仰とは
たしかにわたしたちは、ボンヘッファーが言っている通りいまだ「死の世界」を生きています。しかし、ボンヘッファーの残したものを読んでいると、信仰者は悲劇のなかにあっても、神様の「死を超越した世界」を見ることができることに気づかされます。ヘブライ人の手紙には「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(11:1)と書かれています。
現代は戦争や自然災害や経済の混乱のなかで、多くの人々が困難のうちにいます。本当にイエス・キリストが来たのか。救いは成就されたのか、と疑うかもしれません。しかし、わたしたち信仰者は、福音を信じる信仰が強められるように祈り、聖霊を求めていかなければなりません。この復活節にわたしたちが神様の与えてくださった世界を見ることができる確かな信仰を与えていただけるよう祈りつつ歩みたいと思います。
神様
この復活節にわたしたちを招いてくださり感謝します。
わたしたちはイースターを祝い、復活を喜びながらもこの世の苦労の中に希望を失いかけることがあります。復活の主よどうか弱いわたしたちに命の息を吹き入れてくださいますように。与えられた命に感謝し、日々を喜び、苦難に負けないよう信仰を強めてください。そして、よみがえられたキリストがわたしたちと共におられることを感じながらこの週を過ごすことができますように。