1.本来の姿
さて、旧約聖書の創世記を読みますと、人間は神様の似姿として創られましたと書かれています。似姿として創られたというのはどういうことでしょうか。それは、すがたかたちが似ているというのではなくて、関係性のことを言っているのです。つまりそれは、人間は神様にふさわしいパートナーとして創られたということです。神様のパートナーになれるとは素晴らしいことです。しかし、残念ながらいつの間にか人間はそのことを見失ってしまいました。そして、はかなく滅びゆくものとなりました。
それに対してイエス様の復活は、わたしたちが新しい命をいただく道筋を神様がたてられたということです。それはすなわち、わたしたちがわたしたちの本来の姿、つまり神様の似姿を取り戻す道筋が回復したということです。
2.洗礼とは
さて、本日のテキストに移ります。コロサイ書3章では洗礼をうけた信者がとるべき生活態度を示しています。当時の洗礼は浸礼といって、頭まで水につかる方法をとっていました。厚木上教会ではその昔、洗礼は相模川で行ない、頭まで水につかっていたと聞いています。洗礼はもともと、水につかるということで一度死んで、再び浮き上がることで新しく生き返ることを意味しました。現在の教会でもて、水につかる伝統を守っているところもあります。
3.新しい人を身につける
わたしたちは洗礼を受けて新しい命にあずかります。そして、わたしたちは神様の似姿にふさわしいものとされていくのです。しかし、実際にはわたしたちが洗礼を受けたとしても、ただちに神様の似姿に近づいているのかは疑わしいことです。わたしたちは洗礼を受けて変わったのでしょうか。あまり変わっていないようにも思えます。
パウロがローマの信徒への手紙7章15節で、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」と述べています。あの熱心なパウロですらそうですから、信仰を持ったとしても人間は簡単に変われないのかもしれません。初めの教会の人々も、信仰をもって洗礼を受けて信仰生活を始めても、一足飛びにキリストのような神の似姿になれるわけではないと感じたようです。救われた、バンザイ!と言っているさきからこの世の誘惑に陥ってしまうことがあったようです。その時代からわたしたちの罪深さは根深いものであったのです。それでは、いったいどうしたらよいのでしょうか。
「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(3:9b~10) コロサイ書では、信仰者は脱皮をする動物のように、日々古い自分を脱ぎ捨てていかないと神様の似姿に近づかないというのです。信仰を守って、「神様の似姿」に近づくというのはまさに戦いです。具体的には、毎日み言葉に触れ、祈り、そして神様と隣人への奉仕に専念するということでしょう。このことを怠ってしまうと、とたんにわたしたちの信仰は神様中心が薄れ自分勝手なものとなっていくのです。その一例を紹介しましょう。
4.「愛する」ことと「利用する」こと
ちいろば牧師で有名な榎本保郎先生は「近頃の人は人間を愛する事と、利用するという事の違いをはき違えている」と言っています。それは、自分の思い通りになるうちは仲良くしているが、そうならなくなると、別れてしまう。これは、愛しているというのではなくて、たんに利用しているということだというのです。「愛する」ことと「利用する」ことの違いがわかっていない、というのです。
このことを信仰にあてはめて言うと、古い自分を脱ぎ捨てないと、結局自分中心になってしまう。愛に関して言えば、「愛する」ことと「利用する」ことの区別もつかなくなってしまうということでしょう。自分に都合の良い時だけ神様を信じますが、そうでなくなると神様を忘れてしまうのです。新しい命に生きることができなければ、イエス様の掟に従うこともできません。
5.理想と現実のはざまで
次に神様を喜ばせる人の姿について、コロサイ書ではこう書かれています。
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。(13節)互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。(14節)これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。(15節)また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。(16節)キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、話し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。(17節)何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさいい。」
この勧告はたいへんすばらしい。この通りにできることならそうありたいと願います。しかしながら、この勧告はわたしたちには荷が重いのです。すべてをクリアすることは困難に思えます。そのいっぽう、わたしたちは洗礼を受け、罪が赦されました。そして神様の似姿を完全に取り戻すことができるというお約束をいただいているのも事実です。わたしたちは理想と現実のはざまで、苦悩するのです。しかし、そうであってもわたしたちは絶望してはいけません。
ヨハネによる福音書17章20節~ではイエス様が、
また、彼ら(弟子)のためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにもお願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。
と、お祈りされています。そしてイエス様は今もなお、わたしたちのために祈ってくださっています。現実の自分は満足な自分ではないかもしれませんが、支えてくれるイエス様がいつもともにいてくださるのです。ですから、そこに完全な自分の幻をみなければなりません。そのために、日々自分が作り変えられることを信じて祈り、神様にすべてを委ねていこうではありませんか。
天の神様
今日もわたしたちをお招きくださりありがとうございます。本日はコロサイの信徒への手紙から「古い人」を脱ぎ捨て、「日々新たにされ」ることの大切さをみ言葉から学びました。聞くわたしたちは現実の社会でみじめな姿でたたずんでいるばかりですが、どうかあなたの憐れみによって聖霊を吹き込んでください。ほんのわずかでもキリストの栄光をあらわす部分を持つことができるように導いてください。