1.獅子身中の虫
「ヨハネの手紙」は、当初イエス様の弟子のヨハネが書いたものと思われていましたが、現在では別人のヨハネが作者であるとされています。また、そのヨハネは、紀元2世紀の初めのころの教会の長老であり、その手紙は、特定の教会あてのものではなくて、いくつかの教会で読まれていたものです。
そのヨハネはある問題で苦しんでいました。その問題とは、教会から「反キリスト」が出て来たことです。「反キリスト」とは「アンチキリスト」、つまりイエス・キリストを否定する人です。教会の信仰者がイエス・キリストを否定するなんて考えられない、と思われるかもしれません。この「反キリスト」については、のちほどご説明します。当時の状況として、教会ができて間もないころに、その教会の内部に「アンチキリスト」がでてきたものですから、教会は危機に陥りました。「獅子身中の虫」という言葉があります。この言葉の意味は、《獅子の体内に寄生して、ついには獅子を死に至らせる虫の意》だと言います。もともとは仏教の言葉で、「仏徒でありながら、仏法に害をなす者。」を指していたようです。それが長じて「組織などの内部にいながら害をなす者や、恩をあだで返す者。」の意味で使われるようになったのです。
2.反キリスト
まさに「反キリスト」とは、教会の内部にいて、教会に害をなすもの、教会員でありながら、教会を傷つけるものでした。この「反キリスト」について述べたいと思います。ヨハネの手紙1 2章18節以下にこのように書かれています。
子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。
ここを読むと、ヨハネの教会では「終わりの時が来ていると分かります」というほど、なにか大事が起きていたことがわかります。イエス様も、終わりの時には偽メシアや偽預言者が現れて人を惑わす(マタイ24:24)と言われていました。ヨハネの教会では、「反キリスト」と呼ばれる人々は、結局教会の人々と袂をわかって出て行ってしまったようです。それでは、具体的に「反キリスト」とは何のことを言うのでしょうか。それは、そのころのギリシャ世界ではやっていた思想である「グノーシス主義」という考えに染まってしまった人びとのことです。
「グノーシス」とは、ギリシャ語で「知識」という意味です。「グノーシス」主義は、もともとギリシャ哲学に起源を持つ思想であり、いわゆる二元論です。二元論とは、正しいか、間違っているか二つにひとつ、中間はない、という意味の言葉ですが、「グノーシス」の二元論は「霊と肉」の二元論です。「霊」といわれる魂は正しくて、「肉」である体は「悪」である、という考えです。そこから、わたし達の魂は肉体という監獄に閉じ込められている不幸な状態だが、知識を得て、魂がその肉体から解放されて霊の世界にいくことが救いだと考えます。
このグノーシス主義に影響されたクリスチャンの問題点は、イエス・キリストが本当の人間としてこの世界に来たことを否定するところです。神様ともあろうものが、悪である肉体を持つはずがない、と考えるのです。ですから、神様が仮に人間の姿をしてイエス様になったと考えるのです。ここは肝心なところですが、神様が全くの人間になった、ということは、キリスト教信仰のかなめです。たしかに、わたしたちは滅びゆく肉体を持った不完全な生き物です。くしゃみもすれば、病気にもなる。やることなすこと失敗や間違いだらけです。しかし、神の御子キリストはこの不完全な肉体をもって、この世にやってきてくださった、そしてわたしたちの罪を負ってくださったのです。このことがわたしたちの救いなのです。死すべき運命を持って生きる人間の不幸をまるまる背負って下さった。イエス・キリストは人間のみじめな死を味わって下さった。これは神様が、不完全で不幸なわたしたち人間を愛してくださったということです。不完全な人間を心から愛する神様がおられる、被造物を救おうとする神様がおられる、ということがキリスト教信仰の中心です。
グノーシス主義に染まった信仰者の問題点は、肉体を持ったイエス様を否定し、さらに言えば、この世界をつくられた神様の業を否定したことです。
3.兄弟を愛する
これに対して、ヨハネは、イエス・キリストによって救われたわたしたちがこの世界においてキリストの愛を反映して生きることが大切だと説きます。今NHKの朝ドラで「あんぱん」が放映されていますが、「人は何のために生まれて、何をして生きるのか」ということが大きなテーマとなっています。このことはわたしたち一人一人に突きつけられている大切なテーマでもあります。聖書においても同じことが問われています。
ヨハネの手紙1 2章7節から見ていきます。
(7)愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。
(8)しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。
今やわたしたちのところにはイエス・キリストがやってきました。闇の時代は去って、キリストの光に照らされて、光の中を歩む人間と変えられているのです。
古い律法が新しい光に照らされて、新しい光となりました。
(9)「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎むものは、今もなお闇の中にいます。
(10)兄弟を愛する人はいつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。
(11)しかし、兄弟を憎むものは闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。
「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という掟は決して新しい掟ではなく、レビ記19章18節に書かれている古いものなのです。この律法が、キリストの光を受けて、新しい掟としてわたしたちにあらためて与えられるのです。
キリストの光に照らされて古い掟が新しく生まれ変わる。ユダヤにおける隣人とは、同じユダヤ人ということでしたが、ここで言われている「兄弟」とは、キリストを信じる共同体の「兄弟・姉妹」のことです。
仲間同士が愛し合うのは当たり前ではないかと言われるかもしれません。しかし、教会における「愛」は、必要以上に親切にしたり、べたべた仲良くしたりすることではありません。キリストの「真理」の光の中に生きるときに、わたしたち自身の不完全さが明らかにされます。そして、その不完全さを互いにゆるしあうとき、初めて「愛」が生まれるのです。つまり、「愛」とは「ゆるす」ということでもあります。
キリスト教信仰の要点は、不完全でどうしょうもない人間を、神様が愛したということ、その人間を救うためにイエス・キリストを人間としてこの世につかわした、ということです。イエス様はキリストでありながら、どうしょうもない人間を許して愛して、そのために十字架にかかったのです。そのことによって古い律法が新しくされたのです。何よりも率先して神様自身がわたしたちを赦し、愛したということです。ですから、神様に赦していただいているわたしたちが、ひとをゆるさなければならないのです。ヨハネは反キリストを見分ける方法は、その人が「兄弟をゆるす」ことができるかできないかだと考えます。4章20節では、「『神を愛している』と言いながら兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」と断言しています。
結:兄弟を愛する者とされて
さて、役員であったヨハネは教会の中で「反キリスト」が出てきたことに大変心を痛めました。「反キリスト」はまさに獅子身中の虫でした。「イエス・キリストを愛する」と言いながら、イエス・キリストを受け入れていなかったからです。肉の体をもってこの世界にやってきたくださったキリストは、不完全なわたしたちを、赦し、愛してくださったのです。ですから、キリスト者は、不完全な兄弟・姉妹を愛する者となるのです。
2000年後の教会を形成するわたしたちですが、この戒めをしっかりと心に刻んで、教会生活をまっとうしていけたらと思います。
天の神様
今日もみ言葉をありがとうございます。
今朝はヨハネの手紙を通して、不完全な私たちを赦し、受け入れてくださる神様の愛を考えました。どうかわたしたちが、この自覚をもって、隣人を赦し、愛することができますようにお導きください。現在世界は様々な困難のうちにあります。また、一人一人が深刻な問題を抱えながら生きています。このようなわたしたちの信仰を強め、わたしたちがなすべきことをする力をお与えください。そして何よりもまず、わたしたちに人を愛する心を与えてくださいますように。