厚木上教会

2025.6.1 牧師 中野通彦 「すべてのものを満たすために」

エフェソの信徒への手紙4章1-16節

1.昇天日のこと
 すぐる5月29日は昇天日でした。昇天日とは、イエス・キリストがよみがえってから、40日間弟子たちと過ごしたあと、天に上げられた事を記念している日です。ルカによる福音書では24章50節~(p162)に、こう書かれています。
 イエス様は、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエス様を伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
 イエス様は十字架にかけられて殺されてしまいましたが、神様はイエス様を甦らされました。そして、弟子たちは復活のイエス様に出会って信仰を確かなものにしていきました。そして40日間ともに過ごした後、イエス様は天に昇られました。ルカ福音書では、弟子たちはイエス様の昇天後「大喜びでエルサレムに帰」ったとあります。せっかくよみがえられたのに、また会えなくなってしまうのに、どうして大喜びでエルサレムに帰ったのでしょうか。本日はイエス様の昇天について、エフェソの信徒への手紙4章のテキストからともに考えてみたいと思います。

2.満たす
 さて、本日のテキスト、エフェソ書の4章8節には、
「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れていき、人々に賜物を分け与えられた」
と書かれています。この言葉は、詩編68篇19節を引用しております。パウロはこの引用をもってイエス様の昇天を説明しようとします。 (9節以下をお読みします)「昇った」というのですから、低い所、地上に降りられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。
 神の子が人間となって天から降りて来られた、人間を救うため十字架と復活の事柄を成し遂げて、そして、また天に帰っていかれた。この一連のプロセスは一見まわりくどいようにも思えます。神様なら「ちちんぷいぷいのぷい」と一気にことを成し遂げてしまえばよいのに、と考える人もいるかもしれません。
 ここで糸口になるのが、さきほど読みました4章10節の、「すべてのものを満たすため」という語です。「すべてのものを満たすために」イエス様が天に昇ったと書かれています。「すべてのもの」とは、神様の造られたものです。「満たす」とはギリシャ語で「プレーロー」という語です。何をもって満たすのでしょうか。これは「聖霊」です。イエス様は天に上った後、助け主として「聖霊」を私たちに送ると約束していました。聖書ではイエス様が天に昇られた10日後に「聖霊」が降り、ペンテコステの出来事が起こります。そのことから、人々をはじめすべてのものが聖霊で満たされるためにイエス様は天に昇ったと言えるのです。
 いっぽう、「満たす」というギリシャ語「プレーロー」は、「完成する」という意味もあります。「満たす」ということばを「完成する」と言い換えますと、「すべてのものを満たすため」が、「すべてのものが完成するために」となります。すべてのものが完成する時、それは、「神の国」の到来を指しているのです。「神の国」が到来する時、イエス様が再びこられる時だと書かれています。イエス様が天に昇られたのは、この世の終わりに「神の国」が到来するためのひとつのプロセスだということです。
 そう考えると、わたしたちは聖霊を与えられてから、この世界が完成するまでの間の時代を生きているわけです。イエス様の十字架の死と復活によって、わたしたちの罪が贖われ、永遠の命が約束されました。そして、主の昇天の後、聖霊を与えられて神様の国の完成に向かって進んでいます。
 しかし、救われたはずわたしたちの目の前の世界を見る時に、依然悩みの尽きない不完全な世界を目の当たりにします。環境破壊や自然災害、戦争や紛争による犠牲を目の当たりにしています。そして、わたしたち自身の身近においても、毎日のように心を痛める出来事があります。現状を直視するとき、今この世界は「完成」から逆に遠く離れて行ってしまっているようにさえ感じます。

3.私たちの時
 さて、「エフェソの信徒への手紙」には、戦争や災害、社会問題について触れられていませんが、それでは、その時代の人々はそれらの問題から解放されていたのでしょうか。決してそうではありません。ローマ帝国による専制支配、ペストやコレラなどの伝染病の脅威、さらに教会は迫害にさらされていました。息をつく間もないほど貧しく、様々な脅威にさらされて、明日をも知れない状況であったのです。その環境中で教会の人々は何を大切にしたのでしょうか。
4章の1節~3節を読んでみたいと思います。
「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」
迫害や搾取から身を守れというのではありません。神様から招かれたのだから、ふさわしく歩めというのです。それは謙遜で柔和で、寛容であり、愛と忍耐と平和のきずなの一致を保つことだと言います。具体的には、病人の看病にいそしみ、貧しい人には食べ物を分け与え、迫害するもののために祈ったのです。この教会の働きを通して社会の人びとは主イエス・キリストの恵みを知るようになりました。
 しかし、クリスチャンになることによって、誰でもそのような立派なことができるのでしょうか。あるいは、立派な人になるように努力しなければならないのでしょうか。
14節~15節を読みます。
「こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」
 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
 ここで言われているのは、わたしたちが聖霊に満たされることによってイエス・キリストの体を形成する部分になっていくということです。一人一人がばらばらに生きるのではなく、イエス・キリストの体の部分になっていくことで、その頭であるイエス・キリストに向かって成長していくのです。この場合の成長とは、右肩上がりの成長を言っているのではありません。質的な変化を言っています。それは、キリストの体として、その部分に応じてキリストの性質に向かって変化を遂げるということです。それは、わたしたちの努力で行われることではなく、与えられた聖霊の働きによって成し遂げられるのです。そして、このプロセスこそが神様が求めていることなのです。

4.結論
 エフェソ書は、目の前の厳しい現実をみつつも、救いの希望をもって生きていくことに加え、わたしたちがキリストの体として召されている自覚をもって生きる大切さを言っているのです。このことは、現在多くの問題に直面しているわたしたちにも強いメッセージとなります。いまこそわたしたちにも働く聖霊の支えを求めていくべき時なのです。すべてのことが満たされるためのプロセスを、希望と喜びをもって歩みましょう。

天の神様
感謝します。 あなたの御子、イエス・キリストが天に昇られて、私たちに聖霊が与えられました。
この聖霊の働きをとおして、私たちがお互いの違いを乗り越えて、平和のきずなで結ばれ、一致することができますように、導いて下さい。そしてわたしたちを成長させてくださいますよう切に願います。