1.教会の誕生日
ペンテコステおめでとうございます。ペンテコステというのは「聖霊降臨祭」と呼ばれる、クリスマス(降誕祭)・イースター(復活祭)と並んでキリスト教の3大祝祭のひとつです。その内容はというと、ユダヤ教の五旬祭のときのことです。復活したイエス様が天に帰られた10日後、弟子たちが集まって祈っていると、激しい風が吹いて、「炎のような舌」が弟子たち一人一人に舞い降りて、聖霊で満たしました。この聖霊こそイエス様が約束していた「助け手」でした。この聖霊によってイエス様が救い主であるという固い信仰を持った弟子たちが、不思議なことにあらゆる外国語で証しをし始めたので、周りの人々は驚きました。このことがきっかけで3000人の信者が与えられ、初めての教会が誕生しました。ですから、ペンテコステは教会の誕生日と言われます。
わたしたちは厚木上教会を形作っていますが、教会とは何なのかということがこのペンテコステの出来事から説明できるのです。つまり、教会とは、イエス様を信じて神様に救われた者の群れであり、その信仰を証しする共同体である、ということです。この「イエス様を信じて神様に救われた者の群れであり、その信仰を証しする共同体」であるということ、そのことに付け足すことも、引くこともできないほど、大切なことです。
2.主の僕
さて、本日のテキストはマタイによる福音書12章14節~21節です。これは本日ペンテコステの聖書日課に選ばれているテキストです。この箇所がペンテコステに選ばれている理由をともに考えたいと思います。
このテキストはマタイ福音書の流れの中では、イエス様が宣教活動を開始し、12人の弟子を選んだあとのことです。12章でははじめに安息日に麦の穂を摘んでファリサイ派の人々に非難されます。その時イエス様はご自分を「安息日の主」であることを証しされました。次の段落では、腕の不自由な人をお癒しされて、ファリサイ派の人々に反感を持たれました。これをきっかけにイエス様を殺そうという計画が進んでいくことになります。それを知ったイエス様はそこを退去しました。それは次の預言が実現するためだったといわれます。
「見よ、わたしの選んだ僕。
わたしの心に適った愛するもの。
この僕にわたしの霊を授ける。
彼は異邦人に正義を知らせる。
彼は争わず、叫ばず、
その声を聴く者は大通りにはいない。
正義を勝利に導くまで、
彼は傷ついた葦を折らず、
くすぶる灯心を消さない。
異邦人は彼の名に望みをかける。」(18~21節)
これは本日の招きの言葉、旧約聖書イザヤ書42章からの引用です。
ここをお読みいたします。
「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
暗くなることも、傷つき果てることもない
この地に裁きを置く時までは。
島々は彼の教えを待ち望む。」
まず旧約聖書イザヤ42章の背景をお話いたします。バビロン捕囚で、イスラエルの国は滅び、生き残った人々はバビロンに囚人として連れていかれたり、また、周辺の国々に逃げたりしました。それから50年ほど経って、バビロンがペルシャによって滅ぼされると、イスラエルの人々が、祖国に戻ることが許されます。イザヤ達預言者は、イスラエルが滅びたのはイスラエルの人々が、本当の神様への信仰を失ったことが原因であると考えました。そしてこの42章は第2イザヤの言葉とされていますが、その預言ではイスラエルの罪が赦されたのは、「主の僕」と呼ばれる人が神様に選ばれ、イスラエルの身代わりになって死んだからだというのです。この「主の僕」と呼ばれる人はいまだ誰であったか不明です。しかし、教会では、イスラエルの人々を贖った「主の僕」は、人類を贖ったイエス・キリストの姿を前もって旧約聖書であらわしたものと考えます。つまり、イエス・キリストこそ、「主の僕」であると考えるのです。
3.傷ついた葦
イエス様は神様の召しに従い、十字架の道を淡々と歩みました。それは全人類が救いにあずかるための道行きでした。イエス様は声高に自らを救い主であることを叫ぶこともありませんでした。また、迫害する律法学者や祭司たちを懲らしめることもありませんでした。「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」という言葉の通りに、小さくされ、傷ついた者に寄り添い、癒しをおこないました。
その結果ファリサイ派の人々に反感を持たれ、命を狙われることになっても、それはすべてが人々に神様の正義が示されるためのご計画であったのです。
4.行くべき先を見つめる
ここでわたしの趣味のバイクの話をしたいと思います。わたしはサーキットに行ってライディングの指導を受けていたことがあるのですが、良く注意されたのが、「遠くを見なさい」ということでした。コーナーを曲がっているとき、自分の行くべき先をきちんと見ていることが重要だというのです。簡単に言えば、人は見ているところに行くというのです。わたしはというと、コーナーを曲がるのが精いっぱいで足元の路面を見てしまう、そんな先のところまで見る余裕が無かったのです。ですから、先を見るように、見るようにと努力をしていましたら、一瞬バイクが自然に曲がっていく感覚がつかめました。そのことを、帰りしなに思い返していたのですが、それはわたしたちの信仰生活に共通していることではないかと思いました。
わたしたちはとかく目の前のことに汲々とすることが多いのです。そして、気が付くと自分の思いもよらないような結果を招いていることがあります。どうしてこんなことになったのだろうかと思っていてもあとのまつりです。そこで先ほどのバイクのアドバイスが効いてくるのです。「人は見ているところに進む」ということです。
イエス様はただわたしたちが赦されるために十字架の道を歩みました。その歩みは神様の召しに忠実に従い、「主の僕」として淡々としたものでした。派手なものでも、格好の良いものでもありません。「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」、弱い人々に仕え、悲しむ人のそばに寄り添いました。そして十字架につけられたのです。わたしたちはこのことによって贖われ、救われたのです。そして、そのことをわたしたちに伝えたのはペンテコステに降った聖霊です。聖霊の力によってわたしたちはイエス様を主の僕であることを知ることができるのです。
先ほどのバイクの話に戻ると、わたしたちが命をいただいて毎日を生きるのはイエス様によって贖われたからです。このことを見つめながら日々を過ごして行きたいのです。そのときにはじめてわたしたちはわたしたちの十字架を担う歩みができるのではないかと思うのです。そしてこのペンテコステの時、ともにひとつのこと、イエス・キリストの救いだけを見つめて歩むことを心に刻みたいと思うのです。
天の神様
ペンテコステに教会を与えてくださったことを感謝します。どうかわたしたちに豊かな聖霊を与え、神様の正義の勝利を見つめてまい進できる信仰を与えてください。聖霊による一致を与えてください。