1.「地の塩」「世の光」
さて、マタイによる福音書5章は「山上の説教」の冒頭の部分になっています。「山上の説教」は宣教活動のはじめ、多くの群衆を見てイエス様は山に登り、説教をしました。イエス様のそばには弟子たちがおり、その背後にはイエス様の教えを聞こうと、あらゆるところから集まってきた群衆がおりました。しかし、その説教はもちろんイエス様の弟子たちや集まってきた人たちに対して話されたものですが、その言葉は2000年の時を経て、今わたしたちに対して話されている言葉だと考えることができます。今、生きて働いている聖霊が、わたしたちに対して語り掛けている言葉なのです。
13節からのテキストでは、有名な「地の塩」、「世の光」について語られています。
2.この世とのコントラスト
「何のために生まれて、何をして生きるのか。」これはアンパンマンの主題歌の歌詞であるとともに、現在放映されている朝ドラのテーマにもなっています。そして、「何のために生まれて、何をして生きるのか」という問いは、今を生きる人間すべてに問われていることでもあります。わたしたちの教会は、イエス・キリストを通して神様を信じる信仰者の共同体です。つまり、わたしたちは神様によって生かされ、神様の栄光をあらわすために生きるのです。しかし、こうしたわたしたちの信仰も、教会の営みもこの世から見れば、意味のあることだとはみなされません。コリントの信徒への手紙一1章18節には「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」とパウロは言っています。2000年の昔から、福音はその時代の価値観に照らして言えばナンセンスなことであり、意味のあるものとみられなかったのです。その時代すでに、この世の価値観と教会の価値観には大きな隔たりがあり、はっきりとしたコントラストを描いていたのです。
トルストイの「光あるうちに光の中を歩め」という小説があります。ローマの時代、ユリウスという青年が人生に絶望するたびに友人のパンフィリウスの属するキリスト教の共同体に入ろうとするのですが、その度にこの世を知り尽くしたような老人が出てきて、「おまえは一時的に自暴自棄になっているだけで、やり直すことでまた成功できる」と励まします。そしてユリウスはこの世の生活に戻っていくのです。これを何度か繰り返すうち、最後にユリウスは自分が失敗のために捨て鉢になっているのではなく、イエス・キリストの救いを求めているという確信を持ち、老人を振り切り共同体に入っていきます。このときすでにユリウスは老人になっていました。そして、彼を共同体に入ることを引き留めていた老人の正体は信仰を妨げようとしていたサタンでした。これは、この世の価値観と、教会の価値観の対立をわかりやすく示した物語です。
初めに申し上げたいのは、この世と教会のコントラストについてです。コントラストとは、つまり相いれない別物だということです。ヨハネによる福音書1章5節には、「光は暗闇の中で輝いている。」という言葉があります。教会とこの世との違いがはっきりするほど、「世の光」としてのわたしたちの存在が貴重なものとなるのです。
3.少数であること
また、本日のテキストの中で、イエス様は「あなたがたは地の塩である。」と言われます。こもちろん「地の塩」というのは良い意味でつかわれています。塩は、一粒は小さくても生き物にとって必要な物質です。これがなくなってしまうと生き物は滅びてしまうでしょう。すなわち「地の塩」とは、この世界の生き物が生きていくために必要な性質を持っているということです。しかし、逆に多すぎると今度は生物が生きられません。死海という湖は、塩の濃度が濃すぎるために生き物が住めない湖になってしまいました。日本においては教会は「絶滅危惧種」と言われるほど人数が減少しています。しかし、絶滅危惧種のように非常に少数であるからこそ、信仰者の存在する意味は大きいのです。神様を信じない人が99パーセント以上います。そこに1パーセント弱の信仰者が混じっています。信仰者は少ないからこそ、全体の大切な要素として生かされるのです。
4.神様の栄光をあらわす希望の光
最後に「地の塩」、「世の光」であることの意味について考えます。イエス様の言葉で注目すべき点は、「あなたがたは地の塩になりなさい」、とか、「世の光になりなさい」と要請しているのではなく、あなたがたは「世の光である」、「地の塩である」と断定している点です。
それは、わたしたちがイエス・キリストの十字架によって罪が赦され、復活によって神様の命にあずかっているからです。その結果、信仰者は「地の塩」、「世の光」として、この世界においても欠かすことのできない存在になっているのです。それは、わたしたちが神様の命にあずかることによって、神様の栄光をあらわすことができるからです。これは絶望的な世界においてまさに希望の光です。
厚木上教会はここにひっそりと建っています。他の建物と比べると決して目立つものではありません。しかし、ここ厚木の地において93年の長きにわたり「地の塩」、「世の光」としての働きをしてきました。多くの人が救われ、これからも人々の希望の光となり続けます。この教会の枝として、わたしたちも喜びをもって信仰生活を送りたいと思います。