1.分断
さて、旧約聖書創世記11章には「バベルの塔」の物語があります。当時、人類は同じ言葉を使って話していたと言います。高度な文明を誇りおごり高ぶったために、神様を凌駕しようと天にも届く建造物を建てようとしました。しかし、このために神様の怒りに触れてしまったのです。彼らは、言葉が通じないように違う言語を話すそれぞれの民族とされ、世界中に散らされてしまいました。この大混乱は、人間同士の言葉が通じなくなったという表面的なことだけではありません。目の前にいる相手のことを理解せず、憎み、いがみあうということ、つまり分断がわたしたち人間世界にはっきりと始まったということを言っているのです。この分断は太古の昔から、最近の世界における、イランとイスラエルの戦争、イスラエルとパレスチナのガザとの戦争、ロシアとウクライナとの戦争に続いています。アメリカも自国中心主義を掲げ、ヨーロッパの国々も右派が勢力を持ち、中国が覇権主義を拡大する世の中、これは、世界が東西冷戦以来最悪の分断の危機に立たされていると言ってもいいでしょう。1月18日には、人類の終わりを示す終末時計が残り89秒になったと発表されました。これはわたしたち教会のだけではなくて人類の終わりを示す深刻な事態にすべての人々が直面しているということです。
ところがこの分断は世界の話ではなく、わたしたちの身近に起こることでもあります。イエス・キリストの救いを信奉する教会においても分断は起こります。憎み・争いが起こり、信仰者同士が傷つけあうのです。この事柄は世の生活に疲れて教会を訪れた方々にとっては、大変なショックです。わたしたちの教会が紛争地帯になるのです。
2.赦す
さて、「憎む・いがみ合う」ということに相対するものは「許す・愛する」ということです。まさに聖書はこの二つの事柄の戦いをつづっているといってもいいでしょう。人間は罪にとらわれて、つまらないことから「憎み・いがみ合う」のです。初めて生まれたカインは弟のアベルを憎みました。その罪にまみれた人間を許す神様の愛は聖書のテーマであり、わたしたち教会の信仰の根幹となっています。信仰の中核は神様が人間を赦したということです。人間は神様から見れば赦されることのない存在です。それなのに神様は人間をお赦しになった。ひとり子をお与えになった。だからイエス様は言われます。あなたがたは赦されているのだからあなたがたも許しなさいと。マタイによる福音書18章では、弟子がイエス様に「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と尋ねたのに対してイエス様は七の七十倍までも赦しなさいと言われました。そのあとのたとえで「仲間を赦さない家来」の話をしています。自分が多くを赦してもらっているのに、それを忘れて人を許さないというのは間違っている。わたしたちが人を赦さないということは神様に対する冒とくだというのです。同じ理由でマタイによる福音書7章では「人を裁くな」と言われています。
繰り返しになるかもしれませんが、キリスト教で「許せ」というのは、決してヒューマニズムから出ているのではありません。神様がわたしたちを赦してくれているという理由から出ているのです。ですから、わたしには罪がないという人には赦しがありません。聖書は、神様が大変厳しい方である一方、赦す方であることを示しています。この両方がある、ということが大切なのです。イエス様についていえば、十字架上で十字架にかけた人々を赦したと言われます。これはイエス様を十字架に着けた人々を断罪するとともに赦すという神様の性質をあらわしているのです。
3.聖書
本日のテキストも、人を裁いたり、赦さなかったりすることの問題を提示しています。分断が進むと人間関係がぎすぎすして、一人一人が生きづらさを感じ、結局自分たちの首を絞めあうことになります。確かにお互いの主義主張をいうことは大切ですが、それが行き過ぎすると、本当に大切なものを見失ってしまうことになります。それでは、本当に大切なものとは何かというと、わたしは、それは、「愛」ではないかと思います。パウロは、「山を動かすほどの信仰を持っていても」、「全財産を貧しい人びとのために使い尽くそうとも」「わが身を死に引き渡そうとも」愛がなければ意味がないと断言しています。そして「愛」とは具体的には何かと問われれば、わたしは、それはやはり、「許し」であると思うのです。つまり、「許す」ことと「愛する」こととは不可分な関係にあるのです。そして、その対極を考えると、「許さない」、「愛さない」ということです。「許さない」、「愛さない」ということは信仰者が、神様に対して自分には罪がないと、だだをこねる裏返しです。その人は「悪者」をたえず探し求めて罪を追求し、自分自身の罪の問題と向き合わないようにしているのではないでしょうか。
わたしの知り合いの弁護士のお連れ合いが殺されて、被害者の会を立ち上げて厳罰化の運動をしました。その影響で日本の刑罰は厳罰化の傾向が生まれました。しかし、厳罰化が進んで凶悪事件が減ったでしょうか。むしろ悲惨な事件が増えているように思えます。かたや、アメリカの信仰共同体のアーミッシュで銃撃事件が起こった時に、即座に犯人を赦すという声明を出しました。このアーミッシュの人々の寛容さに世界の人々の心が打たれ、人間の進むべき道を(かすかな光ですが)示したように思います。イエス様はマタイによる福音書5章の27節以下では、みだらな思いで他人の妻を見ただけで目玉をえぐりだせと言います。また、右の手が悪さをするなら切り取ってしまえと言います。この言葉はイエス様の本当の気持ちだったのでしょうか。わたしはそうでないと思います。もし、この言葉通りにわたしたちがするとすれば、ほとんどの人の目がくりぬかれて、ほとんどの人の手足が切り取られてしまうでしょう。しかし、そうならないのは神様の赦しがあるからです。わたしたちは目がえぐりだされて手足が切り取られても仕方がない存在なのに、自分が赦されていることに気づかない。他人の目の中のちりに目をとめて、自分の目の中の梁に気が付かないのです。イエス様はそのことを「目をえぐりだせ」という言葉にこめたのではないでしょうか。
4.結論
しかし、このことはお互いなれ合いの社会を作りなさい、ということではありません。信仰的に大事なのは、繰り返しになりますが、わたしたちは先に神様によって多くのものが赦されているということを知るということです。そのうえで、主義主張を通すことも大切なのです。しかし、それは正義感からおこなうのではなくて、「愛のわざ」としておこなうのです。わたしたちはすでに赦されており、先々には神様のご支配のものとで完全に贖われるという希望を持っています。この希望をもっているからこそ、人を赦し、ひとに仕えることができるのです。わたしたちの赦しがすべてに先行して与えられている、このことに感謝して新しい一日、新しい一週間、新しい月を過ごしてまいりましょう。