厚木上教会

2025.07.20 牧師 中野通彦 「嘆き祈る声」

詩編143章1-6節

1.ダビデと絶望
さて、本日の詩篇は嘆きの詩篇に分類されるものです。詩編には様々のことに嘆く詩が多く収録されています。人間はなぜ嘆くのでしょうか。それは大きな不幸に襲われたとき絶望をおぼえ、嘆くのです。
 「主よ、わたしの祈りをお聞きください。/嘆き祈る声に耳を傾けてください。」(1節)
この詩編の作者はダビデとされています。ダビデは旧約聖書のなかで「失敗おじさん」と言われていいほど多くの失敗と絶望を味わった人です。
信仰深いと思われているダビデが、絶望し、嘆くことについて違和感がある方もいるかもしれません。それはダビデほどの信仰者は自分の受け入れられない現実を神様のご計画だと考えて、感謝こそすれ、嘆くことはないだろうと思うからです。
そんなダビデの嘆きの中でも有名なものは、サムエル記下19章1節
『ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上って泣いた。彼は上りながらこう言った。「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。」
これはダビデがイスラエル統一王国をたてたしばらく後のこと、息子の一人のアブサロムが謀反を起こして、ダビデを攻め王国をわがものとしようとしました。この戦いにダビデが勝って、部下がアブサロムを殺した後の話です。
 このダビデの嘆きを聞いた部下たちは、自分たちが命をかけてダビデを守ったことが悪かったのかと落胆したようです。しかしながらダビデは王様である以前に一人の父親であったということだと思います。どんな理由があろうとも、自分の子どもの死を喜ぶ親はいなのです。ダビデは旧約聖書で最大の王といわれていますが、それは神様の前で一人の弱い人間であることを隠さなかった人物であるからだと思います。そしてわたしたちも信仰者である前に、ひとりの弱い人間である。だからこそ、現実に絶望し、嘆くのではないでしょうか。
「敵はわたしの魂に追い迫り/わたしの命を地に踏みにじり
とこしえの死者と共に/闇に閉ざされた国に住まわせようとします。
わたしの霊はなえ果て/心は胸の中で挫けます。」(3~4節)
 絶望はわたしたちを地獄の底に追い落とそうとします。わたしたちは死んだようになり、まったく身動きができないほど打撃を受けるのです。

2.絶望のとなり
 朝ドラを見ておりましたら「絶望の隣は希望」という言葉が何回も出てきました。これは、終わらない絶望はないという意味でしょうか。しかし、「絶望の隣は希望」という言葉はずばり信仰の内実を言い当てていることばだと驚きました。本日の詩篇でも、ダビデが散々嘆いておきながら8節以降をみますと
 「朝にはどうか、聞かせてください/あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください。あなたに、わたしの魂は憧れているのです。主よ、敵からわたしを助け出して下さい。御もとにわたしは隠れます。御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって/安らかな地に導いてください。」と語調が変わっているのに気が付きます。
 ここのところを読みますと、絶望が神様への信頼で凌駕されていることがわかります。つまり、信仰者にとって、絶望の隣は希望でしかない、ということです。パウロもローマの信徒への手紙5章3節以下、
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」そしてパウロはこの希望の根拠を、イエス・キリストにおいています。

3.希望
 さて、絶望のことについて考えてまいりました。愛知県犬山市にある京都大学霊長類研究所には、たくさんのチンパンジーが暮らしています。そこで28歳の雄のレオが首から下が動かなくなる難病になり、寝たきりになってしまったといいます。床ずれもひどく、57キロあった体重も35キロまで減りました。骨と皮だけの痛々しい姿になりましたが、首から上は元気なころと何も変わらず、落ち込む様子は全く見られなかったといいます。松沢哲郎所長によると、「チンパンジーは明日のことをくよくよ考えないからだ」そうで、目の前にある世界のみで生きており、「ねたんだり、うらやんだりしない」、過去を引きずり、将来を憂うのは、想像力のある人間だからこそだといいます。
 今置かれた立場がとてもつらいと、自分の将来を見据えた時に絶望に陥りやすい。ただ、希望もまた想像力のたまもので、人間だけが持っている、とのことです。(日本経済新聞2010年11月27日の記事より引用)
この記事から考えられることは、絶望することすら人間だけにあたえられている恵みだということです。しかし、絶望だけではわたしたちには生きていくことができません。神様が与えてくださった主イエス・キリストによってわたしたちの絶望が希望へと変えられていく必要があるのです。
 「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマの信徒への手紙8:24,25)
 皮肉にも人間だからこそ絶望するのです。しかも信仰も希望も人間だからこそ持つことができるのです。イエス・キリストによって絶望を希望に変えてくださる神様に感謝して、喜びをもってこの週もともに歩んでまいりましょう。